森見登美彦『太陽の塔』を読んだ。
シンプルなタイトルから、何となく硬派な小説かと、勝手に勘違いして手に取ってみた。
読んでみると、「長きに亘り、私は『水尾さん研究』を行ってきた。作成されたレポートは十四にのぼり、すべてを合わせると四百字詰め原稿用紙に換算して二百四十枚の大論文である」。
冒頭部分に書かれた、ある一文である。「水尾さん」というのは、どうやら主人公の元カノらしい。って、この小説はストーカー小説か!?
冒頭で思わずたじろいだが、怯まず読み進めた。
別れた彼女を研究と称し付け回しては、そのレポートを書いてきたという主人公。
名前を名のらないが、京都大学の学生である。恐らく筆者自身のことであろう。
プライドが高く、自分が偉い人間であると思っている。なかなか憎たらしい主人公である。
ここまで憎たらしい主人公も珍しい。私の知っている限りだと、『クリスマス・キャロル』のスクルージぐらいなものである。
その上、不器用で、従って、人付き合いが決して上手い方ではない。人と接するよりも、日々読書と妄想にふける毎日である。
一見すると、かなりの際物の主人公にも見えるが、はて?この人物の性格は、本当に際物なのだろうか。
考えてみると、主人公のキョラクターを構成する諸要素は、自分にも当てはまるようにも思える。
自分が偉い人物だとはまさか思ってもいないが、自分が結構な見栄っぱりであることは、間違いない。とすると、プライドはそこそこ持っているといえる。人付き合いの不器用さは、親公認である。えへん!って威張れることではないか(笑)。
そう思うと、主人公の性格の悪さや悪巧み、失敗などは、どうも自分のことのようで、お説教されているように、いたたまれない気持ちになった。
唯一、解説を書いた本上まなみの「主人公の特徴は・・・のそのそ、もさーって感じ。わたしごのみです」という一言に救われた(笑)。
それにしても、恋人たちの溢れるクリスマスの夜を、現代版「ええじゃないか」でぶち壊そうという、主人公とその愉快な仲間達の壮大?な企てには、思わず脱力であった(しかも成功してしまった)。

シンプルなタイトルから、何となく硬派な小説かと、勝手に勘違いして手に取ってみた。
読んでみると、「長きに亘り、私は『水尾さん研究』を行ってきた。作成されたレポートは十四にのぼり、すべてを合わせると四百字詰め原稿用紙に換算して二百四十枚の大論文である」。
冒頭部分に書かれた、ある一文である。「水尾さん」というのは、どうやら主人公の元カノらしい。って、この小説はストーカー小説か!?
冒頭で思わずたじろいだが、怯まず読み進めた。
別れた彼女を研究と称し付け回しては、そのレポートを書いてきたという主人公。
名前を名のらないが、京都大学の学生である。恐らく筆者自身のことであろう。
プライドが高く、自分が偉い人間であると思っている。なかなか憎たらしい主人公である。
ここまで憎たらしい主人公も珍しい。私の知っている限りだと、『クリスマス・キャロル』のスクルージぐらいなものである。
その上、不器用で、従って、人付き合いが決して上手い方ではない。人と接するよりも、日々読書と妄想にふける毎日である。
一見すると、かなりの際物の主人公にも見えるが、はて?この人物の性格は、本当に際物なのだろうか。
考えてみると、主人公のキョラクターを構成する諸要素は、自分にも当てはまるようにも思える。
自分が偉い人物だとはまさか思ってもいないが、自分が結構な見栄っぱりであることは、間違いない。とすると、プライドはそこそこ持っているといえる。人付き合いの不器用さは、親公認である。えへん!って威張れることではないか(笑)。
そう思うと、主人公の性格の悪さや悪巧み、失敗などは、どうも自分のことのようで、お説教されているように、いたたまれない気持ちになった。
唯一、解説を書いた本上まなみの「主人公の特徴は・・・のそのそ、もさーって感じ。わたしごのみです」という一言に救われた(笑)。
それにしても、恋人たちの溢れるクリスマスの夜を、現代版「ええじゃないか」でぶち壊そうという、主人公とその愉快な仲間達の壮大?な企てには、思わず脱力であった(しかも成功してしまった)。






森見登美彦『太陽の塔』読みました!


